東海愛知新聞バックナンバー
 7月8日【火】
各町融和のシンボルに
例大祭へ刺し子法被を新調
菅生神社氏子11町
裏に「ほこ船」の名前
岡崎市

岡崎市康生町、菅生神社の氏子11町が、19、20日の例大祭を前に刺し子の法被(はっぴ)80着を新調した。リバーシブルで、表に「左三つ巴」、裏にはかつて各町にあった「ほこ船」の名前が書かれている。次代に歴史を伝えると同時に、祭りを盛り上げる氏子同士の融和を図ろうというのが目的。新調の法被で迎える例大祭に、「花火もあるし、みんな見においでん」と呼びかけている。

かつては各町でほこ船を持ち、争って花火を打ち上げた。大正時代から昭和初期がほこ船の全盛期で、籠田町「瓢子(ひさご)丸」▽連尺町「八千代丸」▽康生町「龍城丸」▽本町「晴朗丸」▽六地蔵町「宝来丸」▽唐沢町「唐生(とうせい)丸」▽祐金町「猩々(しょうじょう)丸」▽十王町「蜻蛉(とんぼ)丸」▽菅生町「千鳥丸」―があった。

ほこ船は、伝馬船を2隻から4隻つなぎ、その上にやぐらを組む。祭り当日には、乙川(菅生川)を上り下りし、それぞれの町内にさしかかると花火を打ち上げる。当時の花火は町内の人に見せるものだった。

各町では花火に名前を付けてユニークさを競い合い、対抗意識が高まって祭りが近づくと「ほかの町の氏子と同席はもちろん、顔を見るのも避けた」という。神輿(みこし)の練り込みのときに歌う「長持うた」も各町独自の歌詞で歌われた。

しかし、川に係留していて流されるなど、「千鳥丸」を最後に昭和40年代後半で各町のほこ船はすべて姿を消した。ほこ船はなくなったが、今でも各町の代表を「船長」と呼んでいる。

その後も菅生神社の例大祭は氏子各町によって継続され、今も残るのは、本町一丁目▽本町二丁目▽本町三丁目▽康生東▽康生南▽連尺▽籠田町▽六地蔵町▽祐金町▽十王町▽菅生町―の11町。

最近はサラリーマンが増えて例大祭の参加者は減少傾向。「このままでは祭りを継承する人がいなくなってしまう」という危機感があり、長年の敵対意識から融和へと機運が高まった。昨年春、康生東の船長・太田隆善さん(53)、祐金町の元船長・志賀俊勝さん(47)が発起人になり、「全町のシンボルにしよう」と刺し子法被の新調を呼びかけていた。

19、20日例大祭

宵(よい)祭りの19日は午後7時ごろから奉納花火があり、二号玉10発、金魚花火15発、手筒24発が打ち上げられる。本祭りの20日は午後2時から神事がある。

菅生神社の例大祭は江戸時代から行われてきた。戦中、戦後は一時中止していたが、花火大会は昭和23(1948)年から、岡崎観光夏まつりと合同で復活した。








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