東海愛知新聞バックナンバー

 8月14日【金】
あす終戦記念日

「話せば分かる」

岡崎在住 元海軍兵の柵木さん語る

あす15日は終戦記念日。戦争体験者が高齢化により減少する中、九死に一生の状態を何度も乗り越えて「生きる幸せ」をつかんだ元海軍兵の柵木猛さん(95)に戦後70年の心境を聞いた。(竹内雅紀)

中国での惨劇

柵木さんは大正8(1919)年、碧海郡六ツ美村(現在の岡崎市中島町)に10人きょうだいの4人目として生まれた。18歳で海軍に入隊。広島県呉市の海兵団で厳しい訓練を受け、昭和13(1938)年秋には出兵先の中国・長江で、乗っていた測量船が中国の密輸船と衝突。体が大河に投げ出されたが救助された。1年近く長江の測量任務に従事したが、その間も両岸からの砲撃や戦友の死を経験。「いまだに脳裏に焼きついている。無念さは忘れない」と振り返る。

真珠湾での危機

帰国後は潜水艦乗りになるため専門の学校に通い、無事に卒業。実戦練習を繰り返すうちに外洋での大演習があると聞いた。16年11月、呉から大量に物資を積み込んで出航。「演習なのにやたらに荷物が多いな」と感じていたが、その予感は的中した。向かった先は米ハワイの真珠湾だった。

米国との開戦時の最前線。湾口から約24キロの沖の海底で、逃げまどう敵艦に魚雷攻撃するはずだったが、不覚にも敵の防潜網に引っ掛かり、水深125メートル地点で絶体絶命の状態に。前後進や上下に動いても脱出できず、高水圧による浸水で呼吸困難にもなった。昼間に潜水艦が海上に浮き上がるのは危険なため、夜まで半日以上耐えて浮上の機会を待った。「助かる確率は1%と言われた。息苦しいし、船員の多くは死を覚悟。表情はまるで蝋人形のようだった。私も母親が思い浮かんだが、不思議と『死ぬ』とは思わなかった」と話す。結果、浮上に成功し「奇跡の生還」と称された。

その後、南太平洋のニューカレドニアでの偵察任務中には水中爆雷の攻撃を受けたが、潜水艦の全ての機器を停止、水中に静止させる最終手段で敵艦をやり過ごした。

人間魚雷「回天」

3度の危機を乗り越えてたどり着いたのが超小型潜水艦の特潜(特別潜航艇)。特潜隊に入隊し、厳しい訓練を積んだ。その際、人間魚雷「回天」の創案者黒木博司氏らとも出会った。終戦を迎える20年には人間魚雷での出撃の可能性もあったが、柵木さんは若い隊員の教官役に任命された。17歳の若さで命を落とした後輩らを思うと言葉が詰まる。「さまざまな犠牲があって今の日本がある。簡単に言葉で表現するのは難しい」と声を絞り出す。

戦後は、戦中に結婚した妻と岡崎で農業を営んだ。地元では総代会長も務め、現在ではひ孫らと暮らす生活。集団的自衛権をめぐる安保法制については「政治の問題は政治家がやること」とした上で「『戦争っていいぞ』という人は誰もいない。話せば分かること」と強調する。「長生きできていること、幸せになれる権利があることに感謝したい」。あすも鎮魂と世界平和を祈り、静かに過ごす。